永生編

人形の旅 - 永生(3)

目の前に広がっていたのは、 まるで血に浸されたかのような空間でした。

周囲には、 濃厚な血の匂いが立ちこめ、 それが絶えず鼻を突き、 私は強い不快感を覚えました。

反応する間もなく、 耳を裂くような無数の悲鳴が、 突如として響き渡りました。

ほんの一瞬の出来事でした。

先ほどまで何もなかった実験室に、 数えきれないほどの ……「人のような存在」が現れたのです。

それらは、 無数の黒と深紅の線が絡み合って形作られた存在で、 混沌としており、 あまりにも異様でした。

何か行動を起こそうとした、その瞬間、 私は気づきました。

まるで拘束されているかのように、 身体が動かない。

私はただその場に立ち尽くし、 目の前で行われる 数々の非人道的な実験を、 見続けることしかできませんでした。

……彼らは、 ここで過去に起きた出来事を、 私に「見せている」のです。

その光景が続くにつれ、 空間に漂う怨恨、 絶望、 苦痛の感情は、 ますます濃くなっていきました。

感情の重圧は、 まるで喉を締め上げるかのようで、 息ができません。

息苦しさに耐えかねていると、 一人の「人」が、 私のほうへ歩み寄ってきました。

そして、 私の目の前で立ち止まります。

「それ」には表情がありませんでした。

正確には、 顔と呼べるものすら存在せず、 無数の雑線が織りなす、 底知れぬ黒があるだけでした。

そのとき、 先ほどまで存在していた人々と、 悲鳴のすべてが、 忽然と消え去ったことに気づきました。

周囲は異様なほど静まり返り、 その静寂は、 恐怖すら感じさせるものでした。

今、 この場に存在するのは、 私と「それ」だけ。

私はすぐに悟りました。

「それ」は、 ここで命を落とした人々の魂が集まり、 形を成した存在なのだと。

「それ」は言葉を発することもなく、 動くこともなく、 ただ静かに、 私の前に佇んでいました。

「それ」は、 私に何を伝えようとしているのだろうか。

そう考えた瞬間――

「それ」は突然、 私のほうへ一歩踏み出し、 そのまま私の身体をすり抜け、 魂に触れてきました。

その瞬間、 私の魂に、 凄まじい衝撃と苦痛が走りました。

それは、 これまで感じたことのない痛み。

ほんの少しでも気を抜けば、 意識を失ってしまいそうなほどでした。

次の瞬間、 無数の映像が、 脳裏に流れ込みました。

――ここで非人道的な実験を受けた人々が、 残した記憶と感情。

激しい頭痛に襲われ、 私は頭を抱え、 地面に膝をついて、 叫び声を上げました。

まるで、 彼らが過去に味わったすべての苦しみを、 私自身が体験しているかのようでした。

肉体を切り裂かれる痛み。 正体不明の液体を強制的に注入された後の副作用。 成功が目前に迫りながら、 最後の瞬間に失敗し、 命がゆっくりと失われていく絶望。

それらの苦痛を受けながら、 私の意識は、 次第に薄れていきました。

助けたい……。

けれど、 今の私には、 何もできない。

どれほどの苦しみを受けたからこそ、 あなたたちの魂は、 数万年もの間、 ここに留まり続けたのだろう。

どれほど深く魂が壊され、 砕け散ったからこそ、 互いに集まり、 「それ」という存在を生み出し、 生き延びるしかなかったのだろうか。

「――目を覚まして!」

意識を失いかけたそのとき、 脳裏に響いたのは、 懐かしく、 そして優しい声。

――優熙だ。

今の声が幻聴だったのかと 考える間もなく、 私の「心」が、 自ら光を放ち始めました。

柔らかな光が溢れ出し、 魂に刻まれた すべての裂け目を照らしていきます。

次の瞬間、 「ドン」という音が空間に響き渡り、 先ほどの「それ」は、 弾き飛ばされました。

気がつけば、 血の匂いと深紅に染まっていた空間は消え去り、 そこには、 ごく普通の実験室と、 「それ」だけが残っていました。

「……」

「また、 君に救われたんだね」

落ち着きを取り戻した私は、 先ほどの声が幻ではなかったことを、 確信していました。

それは、 優熙が私を守るために、 魂に残してくれた力。

「……ありがとう」

私は深く息を吸い、 歩みを進めました。

弾き飛ばされ、 実験室の奥に倒れている 「それ」のもとへ。

私はその状態を注意深く観察しました。

できることなら、 「それ」を解放してあげたい。

まず結界を展開し、 行動を制限したうえで、 解析を始めました。

しかし、 その結果は、 決して楽観できるものではありませんでした。

「それ」は、 数百、 あるいは数千もの、 砕け散った魂の集合体でした。

彼らは生き延びるため、 互いに依存し合い、 怨恨を動力として、 数万年もの間、 この場に留まり続けていたのです。

だからこそ、 私のまだ裂け目の残る魂に触れたとき、 あれほどの苦痛を与えたのでしょう。

その怨恨が、 裂け目を通じて流れ込み、 私は彼らの痛みを、 身をもって感じることになったのです。

「……すべての魂を、 元通りに修復することはできない。 それは、 君も分かっているはずだ」

しばらく沈黙した後、 私は続けました。

「でも、 これ以上苦しむ必要はない。 過去の痛みを、 抱え続けなくてもいい」

「永遠に、 解放されることはできる」

「……どう思う?」

問いかけると、 「それ」は理解したかのように、 静かに私の前に座り込みました。

――同意、 ということなのでしょう。

「……じゃあ、始めるよ。 心配しなくていい」

「すぐに、 本当の解放が訪れるから」

私は、 絡み合った魂を、 一つひとつ丁寧に分離していきました。

互いの影響を断ち切り、 たとえ欠片であっても、 最後は、 個として解放されるように。

どれほどの時間が経ったのか、 最後の魂の欠片を 分離し終えたとき、

結界の中には、 淡く輝く無数の小さな光球が 漂っていました。

一つひとつが、 魂の欠片です。

私は続けて、 浄化の魔法を重ね、 魂を最も純粋な状態へと 導いていきました。

浄化が終わると、 それまで鈍く輝いていた光球は、 澄んだ、 眩い光を放ち始めました。

「……少しは、 楽になれただろうか」

「最後の工程に入る前に、 もう一度、 温もりを感じてほしい」

そう言って、 私は幻境を展開しました。

魂が完全でなくとも、 最後に、 安らぎと温かさを感じてほしかったのです。

彼らは、 幻の中で、 何を見ているのでしょうか。

私は深く考えず、 ポケットから 小さな瓶を取り出しました。

中に入っているのは、 きめ細かな粉末。

――生命の樹の祝福。

この粉末によって、 彼らを安息の地へ 還したいと考えました。

粉末を振りかけ、 対応する魔法を発動すると、 結界内の空間が、 柔らかく、 温かな光に包まれました。

小さな光球は、 その光に抱かれるように、 静かに溶け込んでいきます。

やがて、 夜空に瞬く星のように、 祝福された空間を漂い――

光が消えるとともに、 光球―― 魂の欠片たちは、 静かに姿を消しました。

私はその光景を見届け、 目を閉じ、 祈りを捧げました。

「安息の地へ還った彼らが、 その先で、 新たな生を得られますように」